そもそもの話 2
以前(12/5)、大琉球浪漫の始まりとなる「そもそもの話」を書いていて、
なんだかデジャブを感じて、すぐに書いた記事があったのですが、
忙しさにかまけて投稿しないままにしていました
でもせっかくなので、かなり間があいちゃいましたが、「そもそもの話」の流れで
「そもそもの話~レキオス編~」 、聞いて下さいますでしょうか(^^;
「大琉球浪漫」が生まれるきっかけは、
昨年1月~3月まで県内各地で上演された
「大航海レキオス」の舞台でした。
そう、その「大航海レキオス」の始まりも確か・・・
写真は、「大航海レキオス」のパンフレット。
昨年3月の沖縄コンベンション劇場公演にご来場くださったお客様だけがもっている、
超レアな代物です
この中で
「ロード オブ ザ 大航海レキオス」として、平田さんの話が掲載されていますが、
その「大航海レキオス」生まれる前は、こんな始まりだったのです。
2003年2月、RBC主催で、宮本亜門演出のミュージカル「ファンタスティックス」を
開催しました。
公演後、舞台に感激した豊島局長は、すぐさまこう言いました。
「沖縄を舞台にしたミュージカルをつくろう!
沖縄のこどもからおじーおばーまでが楽しめるミュージカルだ!」
では誰がこの舞台をつくるのか・・・
沖縄を愛してくれている宮本亜門さんとともに、その時局長の心に浮かんだのが、
沖縄の若き演出家、平田大一さんでした。
平田大一さんとは、2002年12月の「肝高の阿麻和利」公演をRBCが共催したのが
きっかけで知り合い、その舞台はもちろん、これまでの活動に感動し、共感していました。
「一緒に何かをやりたい」「このすばらしい才能を宣揚したい」との想いが、
このとき既に豊島局長の中に生まれていたのだと思います。
そしてその想いが一つの形になったのが、忘れもしない、沖縄市民会館で語った、
「宮本亜門さんと平田大一さんとで沖縄を舞台にしたミュージカルをつくる」
という企画だったのです。
感動は、人を動かす原動力になる。
その感動を情熱を持ち続ければ、夢は必ず実現する。
平田さんに出会って、平田さんを通じてたくさんの方達に出会って、
そのことを実感せずにはいられません。
前出の、昨年3月のレキオス公演で配布されたパンフレットに掲載された、
平田さん執筆の
「ロード オブ ザ 大航海レキオス」の気になる(?)内容・・・
持っている人だけが知っている、という優越感もあると思いますので、
ここまで読んでいただいたあなたにだけ、こっそり、こ~っそり紹介しましょうね
「ロード オブ ザ 大航海レキオス」
「旅の終りと道の始まり」
2003年3月24日、玉城にある亜門さんの家で初めての話し合いをした。
琉球放送事業開発局長の豊島氏と亜門さんと僕の3人でだ。
亜門さんは終始上機嫌で「じゃあ脚本は平田君頼むね」と軽やかに言った。
と思ったら「音楽も松永君がいるんだからついでに演出もしたら?」と重ねて
言ってくる。
意外な展開に苦し紛れにドンナモノガタリガイイノデショウカ?と伺ったら
「沖縄の心とは母性的な愛という内容」とのこと。
悩みが深まり思索の迷路の扉が開いた感じがして途方に暮れた。
2003年8月、自宅の倉庫から11年前に出演した「ミュージカル大航海」の
パンフレットとビデオ、台本を偶然発見。
天からの啓示にも似た想いで夢中で企画書を書き上げ、
現代版組踊としてリメイクしては、と提案。
原作者の三隅先生、亜門さん、豊島局長の承諾を得てプロットを書き始める。
2004年4月1日、舞台制作発表記者会見を開催。
テーマソング「出発の朝」を披露。
会場となったパレット前で出演者募集を叫ぶ!
2004年6月27日、オーディション開催。
約300名の応募者全員と面談し、練習生を含む50名で稽古をスタートする。
山原での夏合宿、10月のアトラクション上演会、そして12月26日きむたか
ホールでのプレビュー公演を行いつつも、順調に遅れる台本執筆との格闘の末、
遂に2005年1月29日那覇市民会館での幕が開いた。
「教育で地域を、文化で産業をおこす!」と豪語して早15年。
沖縄の道を指し示す「羅針盤」の様な舞台へと育てていきたいと思う。
演出 平田大一
・・・そして奇しくも、制作発表記者会見をした2年後の2006年4月1日、
企画の取っ掛かりが生まれた沖縄市民会館で、シリーズの節目となる
「大航海レキオス~出発の朝(たびだちのあした)~」
が上演されるのです!!
「大航海レキオス」は、私にとっても、世界を大きく広げてくれた舞台でした。
あれから2年、成長したレキオス達の勇姿を、是非ご覧頂きたいです!
・・・思いがけず長い記事になってしまいましたが
お付き合い頂きありがとうございます
関連記事